この永遠に切なさが続いていく感じ…なに?なんて言えばいいの?
むしろ、こういうふたりに言葉を付けるのはもはや野暮なのかしら。
ふたりがふたりであることはこれまでもこれからも変わらないし、それだけは揺るぎない事実なのだから、それを見つめていればいいのかな。
なのに、この言葉を吐き出さなければならないという使命感のようなものはなんなんだ…!!!
なので以下、ただのだらだら感想。まとまってないやつ。
このふまけんが「君の名前で僕を呼んで」のオマージュなのではという話で界隈は盛り上がっているけれども、わたしはその映画を観そびれちゃってなんとも言えないのだけど、この永遠に切なさが続いていきそうな感じ、たしかに似通うものがあるなあと。
「ただ華やかなだけじゃなく、憂いもあるのが彼のセクシーさ」
風磨くんのこの一言だけで、もう充分すぎるほど充分なんだよ。
だれよりも長く近く隣でケンティーを見てきたひとの言葉。
「憂い」と表現しちゃうのかとね。
そして風磨くんは、私たちファンが思ってるよりもっとずっと、中島健人という人間を大切に思ってるのかもしれないと思った。
冒頭、「彼はセルフプロデュースの才能に長けているから、俺が中島について語ると彼の打ち出したいイメージとズレてしまう」から始まるの。
「彼のイメージ」ではなく、「彼の打ち出したいイメージ」。
ここ、微妙なニュアンスだけど、確実にこの両者は意味が違う。
そのことを風磨くんは誰よりも理解していて、だからこそ中島健人のことを自分が語ることは躊躇われると言う。
それって、中島健人のパブリックイメージを大事にしようっていう風磨くんの思いな気がして。
それって、変にメンバーのこと語るよりも(変にっていうのは、色々な話って意味ね)愛に溢れているなあと。感じた。深読みしすぎかな?
8.25以降の風磨くんは、まったく自分と毛色のちがうケンティーを、すごく真っ直ぐ認めてくれている姿勢を感じるのね。
だからゴチ代理のときも「セクシーサンキュー」を言ったり、ほかにも、「あ、風磨くんはケンティーのパブリックイメージを守ってるんだな」って思う瞬間が色々あった。それはもう、かたくなまでに。
それって、ケンティー自身の思いを尊重してるからなんだろうなって。そしてそれは、中島健人というアイドルを、人間を、認めているから。に、ほかならないよね。
そして風磨くんにとってジャニーズのはじまりからずーっと、ひとつひとつのステージをケンティーの隣で立ち続けたことって、特別なことなんだなと。
コンサートのことや、そこに至るまでの練習とかは無我夢中すぎて何も覚えてないのに、それらを中島と共に越えてきたってことは、それだけは風磨くんの中に残ってるって、、もう……勘弁してくれ………
わたしが考えているよりもずっとずっと特別なのかもしれない……
言葉にできるわけないよね、だって知らないんだもん。分かんないんだもん。ふたりにしか。
けんしょりや聡マリもとても素晴らしかったんだけど、ふまけんのインパクトがでかすぎて、ちょっとまだ咀嚼しきれないので、またまとまったらブログに書き記そう…
これをアイドル誌ではなくファッション誌でやったことがすげい。。し、だからこそこんなにドラマチックな絵と文なのだろうなとも思う。
ポージングは自然にああなったのか、指示されてこうしたのか、はげしく気になる。し、メンバー、誰が誰のことについて話すかっていうのもどうやって決めたのか気になりまくる。
そんで、なにがすごいってこのライターさんなんだよな。小説や映画を見てる気分になった。叙情的…
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